Learninghacker

知的で創造的な刺激を求めて

「科学リテラシー」を危惧する話題はあるのに「教育リテラシー」が危惧されないのはなぜか?


f:id:uru3:20160713214231j:plain

理科を担当する私にとって,巷で流行りの「水素水」のバカバカしさは甚だしい。

ちょっと自然科学をカジっていればすぐ気がつくことではあるが,

健康信仰ゆえに盲信する人にとって水素水が心理的にその罠に陥りやすいことも

想像し易いことである。

 

このように「科学リテラシー」については似非科学の台頭のたびに

リテラシー不足の危惧が話題として挙がるわけだが,今日はそういう話ではない。

 

科学についてのリテラシーについて危惧する人は多いが,

かたや教育というものについてはもっとリテラシーが働かないのに

それがあまり話題に挙がらないことが心配なのである。

 

「科学リテラシー」の危惧者が自身の教育を批判できない。

科学リテラシーがなぜ問題になりやすいか。

一般論を言えば,科学知識がないから(なのでよく「理科教育の敗北」と揶揄される)

例えば水素水といった一見科学っぽく聞こえ,かつ効果がありそうなものに対し

深く考え批判することもせずに信じてしまう,という考え方がある。

 

しかし,ここには1つ問題がある。

「知識があれば,深く考え批判することができるか?」

についてはあまり批判的な議論が行われない点である。

 

これについて,残念ながらプロの自然科学者はあまり深く考えているように見えない。

だからこそ,全国で行われているサイエンスカフェでは

研究者が一般人に向けておしゃべりすることで,知識を伝達しようとする。

しかし,伝達した知識によって一般人の考え方が変わったかどうかのウラは

取り方を知らないし,そもそも取ろうという発想がない。

 

また「知識」というものの定義も議論することができるだろう。

ヒトが外界について知り得ることができるのは,

五感から外界の情報を得る「感覚」,その人自身の体験から成る「経験」,

そして,学術が構成を目指す理論体系から成る「科学的知識」の3つしかない。

(ここで述べる「科学的」は自然科学だけでなく社会・人文科学も含む)

 

なかなか獲得されないという自然についての「科学的知識」と異なり,

教育は,よほど重大な理由がない限り,日本人ならば「経験」しない人はいない。

だから容易に「経験」から教育が行うことができる。

一方で,「経験」は教育についての「科学的知識」を容易に打ち負かしてしまう。

 

学術や経済界の知識人が持論で教育を述べたところで,

それは大多数の凡人には真似ができない。

ノーベル賞を取った科学者が小さいころ昆虫採集ばかりやっていたからといって

現代の子どもに昆虫採集などの自然体験を充実させたところで

ノーベル賞を取れる保証などどこにもない。

そもそも育った時代の社会的背景を無視しているからである。

 

経済界も簡単に盲信する「アクティブ・ラーニング」

かといって,教育についての「科学的知識」があれば良いかといえば

必ずしもそうとは言えない。

特に,付け焼き刃ほど危なっかしいものはない。

その典型として最近よく使われる言葉が「アクティブ・ラーニング」である。

 

例えば,最近経済界ではAI(人工知能)やロボットの産業進出が注目されている。

現実的に今の子どもが大人になる頃には,

AIやロボットができない仕事ができた方がその人の価値が高まる可能性が高い。

 

問題は「だからアクティブ・ラーニングをやりましょう」という結論である。

誰とは言わないが,新聞でそのようなことを書いている人がいた。

 

さすが経済界の知識人,最新の教育界の情報にも敏感なのは

少なくとも知らない人よりは100倍尊敬できる。

 

けれど,「アクティブ・ラーニング(AL)」とは何かという話が出ていない。

これが何なのか分からないのに「AIに勝つためにALしましょう」言われても

分かるはずがない。

 

文科省が推進する「アクティブ・ラーニング」も本当ならば注意が必要である。

文科省ではALを「学修者の能動的な学修」といってみたり,

中教審では「課題の発見と解決に向けて主体的・協働的に学ぶ学習」といってみたり,

実は微妙に言葉が変化している。

 

「能動的な学修」ってなんなのだろうか。

というか,能動的でない学修なんてそもそもあるのだろうか。

後者はもっと注意が必要で「協働的」はともかく「主体的」なんて言葉は

もともと提唱されたアクティブ・ラーニングの定義にそんな言葉はない。

「主体的」とか「課題発見」あたりは,

明らかに学習指導要領を引きずって後から解釈されているのである。

 

解釈の変化が正しいか誤っているかは議論の余地があるが,

とにかく定義が明確でないもので指導することは不可能である。

意味が曖昧なものは,操作的に定義を与えるしかないが,

「アクティブ・ラーニング」の言葉が出てきた時に,

文科省の引用だけでなく操作的定義まで書かれた文章を見かけることは

むしろ稀である。

 

「アクティブ・ラーニング」も定義を誤れば水素水の二の舞になる。

意味のはっきりしない言葉で,さぞかしすごいもののように語れば

「アクティブ・ラーニング」もまた教育の似非科学になりかねない。

なんだかよくわからないけど良いものなら,水素水と同じだ。

 

問題構造が似ているにもかかわらず,

「アクティブ・ラーニング」を例に「教育リテラシー」を批判した文章を

私は今のところ読んだことがない。

 

「健康」と「教育」は,とりあえず「良いもの」として扱われるからこそ

逆に始末に負えない嫌いがある。

経験論が知識を容易に打ち負かす点でも同じだが,

誰もが経験しているだけに教育の方がタチが悪い。

 

これを読んでくださった読者の方には

ぜひ今後,科学だけでなく教育についても

ちょっと言葉の意味(定義)に意識しながら文章を読んでみてほしい。

批判はきっとそこから始まる。

関連記事もどうぞ