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広大なネットの海に個人の思考をどこまで出して良いものか?


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こんにちは、uru(@uru_)です。

ソーシャルメディアやブログでの私の発言や所属する組織の意見を代弁するものではありません

…これって実はものすごく当たり前なことだと思うのですが、わざわざこんなキャッチを入れなければならないほど、世の中の一部の人は個人を組織というフィルター越しに見ていることが分かります。

どんな組織の、どんな役職についたところで、それは社会的信頼であって、個人の価値とは無関係です。私がたとえ無能な人間だったとしても、雇用主である組織が無能であることとは別問題である、と私は思うのですが、あなたはどう思いますか?

2017年4月に転職してから、ブログの更新頻度がだいぶ減ってしまいました。過去にも似たように更新頻度の増減を繰り返しながら今に至ります。

そこそこ減ったのちに、何度も内省を繰り返さなくてはならなくなるのは「広大なネットの海に個人の思考をどこまで出して良いものか?」という問題です。

文章を書けば、思考は自ずと露呈する

私たちの脳は言語を媒介にして思考を行います。私の思考媒体は日本語です。日本語で文章を書くということは、思考を漏らすことに他なりません。

問題は思考を”どこまで”漏らすか、その量の問題です。

例えば、今日の問いをもって私は思考をいつも以上に吐き出しています。広大なネットの海を個人の思考の共有媒体と捉えるならば、この問いは最適解のない開かれた問題であり、本来この解は個々人の価値観に委ねられているはずです。

しかし、個人の思考を社会性や公共福祉と関連づけて捉えると、途端に息苦しくなります。簡潔に言えば、「炎上」してしまうのが怖いのです。

これが個人の思想であっても、所属する組織に迷惑をかける可能性がゼロではない。そのリスクをどのように捉えたら良いのか、私は広大なネットの海を使って久しくなる今でもずっと考え続けており、そして今なお答えが出せないのです。

思考を晒さなければ、人との交流は生まれない

答えが出せないにもかかわらず、こうして今私はあなたに私の思考を晒しています。

それはなぜか。

それは、これを読んだ方と共感したい、議論したい、交流したいと思っているからなのです。

広大なネットの海から発せられる私の情報には(今のところ)身体性がありません。イケメンとは程遠い私の顔を晒す必要もなければ、自信のない身長や年齢を気にする必要もありません。だからこそ、老若男女誰でもその気になれば、平等に私の思考とあなたは交流することができます。あなたにその気があれば、私に直接コンタクトを取ることもできます。

もしなんらかのアクションがなかったとしても、あなたに私という人間の考えを伝えられるのは、本来特別な行為だと思っています。

さて、広大なネットの海に改めて目を向けてみると、残念ながら私が想像するような善人ばかりで構成されているわけではないのは明らかです。

自分の意見をぶつけたいだけの人に辛辣な言葉を浴びせられたこともありました。リアルの世界ではまず降ってこないような言葉も、精神だけが漂うネットの世界では、いとも簡単に人を傷つけることができます。

そんな人とは交流しなければ良い。それは確かに正論なのですが、全く心が傷つかないほど、精神的に「強靭」でもないのです。というか、全く心が傷つかなかったら,それはそれで「狂人」でしょう。

私は思考レベルで他者と交流したい。私という人間をフラットな状態で伝えたい。

こう思うことって、変なことでしょうか?

おわりに:ブログはソーシャルメディアではない

問いだけがあり、明確な答えがないままこの文章を閉じます。

ただ、最後に一つだけ。私の思考は、このブログに残します。

ブログはソーシャルメディアではないと私は思います。あくまで個人のメディアです。TwitterやFacebookに比べたら、見る人は限定されてきます。しかし、個人の思考を残すのであれば、おそらくソーシャルメディアよりずっと自己と他者の境界が明確なので、ブログは様々な思考実験もできるのです。

きっと、他者と交流を持ちたいと願っているからこそ、自己と他者が溶け込むことを嫌っているのかもしれませんね。同一化は交流とは違いますから。